「ほんとうですか」
「ほんとだよ。おかしいなー。どうしてそんなことを」
「なにか、いいことがあったに違いない、と思うんですがね。
僕のカンははずれたことがない、というので社内でも評判なんですがね…。
だって、社長は、二、三日前から、いつもニコニコしてますからね」
「僕が?ニコニコして?そんなことないよ。いつもとおんなじだよ」
「いや、どことなく違いますよ。こんなこと言うの…。
なんですが、以前は、いつもむつかしい顔をしてましたよ」
「僕が?そんなむつかしい顔をしてたかな」
「あれ?
社長、社長はほんとに、自分ではなんにも気付いておらないのですか」
社長には、まったく思い当たることがなかった。
しかし、他の社員たちからも同じことを聞かれた。社長が私に述懐したところでは、
「自分ではまったく気付いておらなかったが、歯が悪かったものだから、会社の慰安旅行や、みんなと共に呑みに行った時など、他の者がホルモンやカニをおいしそうに食べたり、お茶漬にたくあんそえてバリバリ食べているのを見ると、自分は食べられないし、とてもうらやましかった。
ときには歯の悪い自分に腹が立ったり、おいしそうに食べてる人を見ると憎い
とさえ思ったことがある。
そんな思いが、いつの間にか険しい表情になっていたのではないかと思います。
それが、歯を全部直して、とても調子よくなったものだから、気付かないうちに機嫌がよくなり、自然に笑顔になっていたのでしょうな。
女子社員からも、社長が急にニコニコして優しくなったので、なんとなく気持ちが悪いような気がする、というようなことも言われました。
家の者たちも、この頃わたしが、あまり怒らなくなったので勝手が違うっていいます。
こわいもんですね。歯が悪いだけで、人間の性格まで変わるんですかね。
みんなからそう言われて、なるほどなーと思いました。この頃なんでも食べられますからね。
ホルモンでも漬け物でも…。歯が治って、初めてたくあんを食べたとき、こんなにおいしいものだったのかと、本当に嬉しかったですね。
これからは、自動車は古いのでもいいから、義歯だけは、いいのを作ってもらおうと思っています。
家内も歯が悪いので、これからはこの歯医者へ通わせようと思っています。」